【ひろき日記】有能ランキング前編

ばこんちおはわ

ひろきです

今回は唐突に僕の独断と偏見で決めた三国志の有能ランキング発表します。

選出基準ですが「自分の所属する陣営にどれだけ貢献したか」です。なので元首だとか軍師だとか武将だとかその他諸々がごちゃ混ぜです。

もう一度言いますが僕の独断と偏見です。

ちなみに雑な地図。

ではさっそくいきましょう

第10位 劉備

字は玄徳。蜀の初代皇帝。

特に大きな成果はなし。

乱世の初期から天下三分まで生き残った。ただこれだけでランクイン。

ただ引き際を見極める戦術眼はたしかで指揮官としては優秀。夷陵の戦いを除いて。

夷陵の戦いを除いて。

第9位 華佗

字は元化。曹操の典医。政治的、軍事的な活躍は全くなし。

曹操の持病であった頭痛や眩暈の治療をし曹操の覇道に手助けになった医者。しかし、約1800年前に生きた人間だがその時代に麻酔薬を用いた外科手術をしていた医学の化け物。


 

第8位 法正

字は考直。蜀の参謀。

益州に劉備を招きいれ、劉備に益州を奪わせた張本人。

山に囲まれ天然の要塞といえる益州の数少ない出入り口「漢中」。戦略上、益州の要であるこの地を曹操が占領していたがそれを奪い取ることを進言。自らも軍師として従軍。様々な策を献じ、魏の古参将軍で主将 夏侯淵を討ち取り、蜀軍を勝利に導き、漢中を奪うことに成功。漢中に魏軍がいることは蜀にとって喉に刃物をつきつけられてるようなものでそれを追い払えたという功績は大きい。

第7位 張遼

字は文遠。魏の将軍。「合肥」の守護神。

正史の方がチートと言われるほどの猛将で単純な個人の強さでいえばおそらく三国志で五本の指に入るだろう強さ。

張遼は合肥に駐屯して守備をしていたが呉の孫権が十万の兵を率いて侵攻してくる。張遼は城に篭らず、逆に800人ほどを率いて城を出て迎撃。凄まじい勢いで孫権軍に突撃し孫権に近づく。驚いた孫権は逃亡し丘の上に布陣する。その後、孫権は張遼の軍勢を大軍をもって何重にも囲むが、張遼は配下の兵と共に包囲を破って脱出。しかし、包囲の中に配下が残されており、張遼は再び引き返して包囲の中に突入、配下を救出しまた包囲を破って脱出するという鬼神。

結局、孫権は合肥の城を落とせず撤退するのだが張遼は孫権軍を追撃。一時孫権に肉薄するもどれが孫権かわからず、とりあえず殿軍をつとめた凌統の部隊300人を全滅させ孫権にトラウマを植えつけた

第6位 呂蒙

字は子明。呉の武将。魯粛の後任として荊州へ。

呉と蜀は同盟を組んでおり、荊州は元々は蜀が呉に返還するという約束だったが蜀がゴネていた。呂蒙は関羽が守備する荊州の土地を攻めることを最優先と孫権に進言し、自分が病であるという偽りの噂を流すなど様々な策を講じ最終的にはあの名高い関羽を討ち取る。

ただそれだけなのだが、荊州は広い上に人口が多い土地でここを領土とすることで蜀は魏に対抗するだけの戦力を蓄えることができ、諸葛亮の益州、荊州から魏に侵攻する二面戦略においてこの時の関羽のポジションは極めて重要で、この関羽の死はおそらく蜀のターニングポイントであり、下手をすれば中国史が左右されるほどの事象。したがって討ち取った呂蒙の功績は呉にとってあまりにも大きい。

第5位 陸遜

字は伯言。呉の武将。呂蒙の後任。

関羽の死に激昂した劉備が荊州に侵攻してくる。陸遜は呉の守備軍の大将として迎撃にあたる。何百里も引きながら戦い荊州全体を使った罠に劉備をはめる。ギリギリまで引き上げ続けたため、従軍していた古参の将軍たちは陸遜を臆病者と揶揄するが、戦線が伸びきった上に疲弊した劉備軍を見て陸遜は火攻めなどを用いて反撃に転じ、退路を断ち劉備軍を壊滅させる。所謂夷陵の戦い。

ギリギリまで下がった陸遜が打ち破られれば呉が壊滅しかねない戦況であり、劉備から呉を防ぎきり敗走させた陸遜の功績もやはり呉にとってかなり大きい。

ちなみに諸葛亮いわく法正が生きていればこの劉備の敗戦はなかっただろうと嘆くほど法正は蜀にとって大きい存在だった。

第4位 諸葛亮

字は孔明。いわずと知れた蜀の軍師。劉備の運命を変えた有能の中の有能。伏龍とも呼ばれる。

三国時代になったのはだいたいこいつのせい。

当時、劉備はまだ領地すらない流浪の軍で戦力も曹操や孫権と比較にならないほど少なかった。そんな劉備に対し益州、荊州を領有し中国全土を劉備、曹操、孫権で分けるいわゆる「天下三分の計」を進言。その後劉備はそれに向けて動く。

当時、劉備は荊州の劉表を頼り、その客将として荊州に駐屯していたが、その劉表が死去。そこに曹操が圧倒的な戦力で攻めてくる。諸葛亮は荊州を捨て、孫権と同盟を結んで合流し、曹操を撤退させるという戦略をとり、長江にて曹操に勝利し撤退させる。これが有名な赤壁の戦い。

その後、孫権が、というより周瑜が曹操と対峙している隙に劉備軍は荊州南部の4郡を平定。そして、法正の導きにより益州に入り益州の北部も平定。蜀を建国し、天下三分の計を成し遂げ、三国時代に突入した。

おそらく諸葛亮なしでは劉備は領地を得ることもなく死んでいたであろう。そうなると三国時代などなくこれもまた中国の歴史を左右するほどの功績である。

その後、関羽の死、夷陵の戦いの敗戦で戦力も物資も失い疲弊しきった蜀。それでも諸葛亮の行政の能力によって魏に5回も大規模な侵攻をできるほどに回復。

しかし、諸葛亮に人を見る眼がなく、また諸葛亮自身が有能すぎるが故に周りがついていけず、侵攻は失敗に終わり、最後の侵攻の最中に諸葛亮は没することとなる。そこがマイナスポイント。

長いのでこの辺で。次回に続く。
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