このブログはタッキーこと大瀧の個人的なオタク活動を綴ったものです。
この文章の作者は常々思っている。
オタクとは、誇り高くあるべきだと。
彼は自分自身がオタクであることに誇りを感じている。
世の中には、オタクなことを自ら隠そうとしている者達もいる。もちろん、中にはオタクに対して偏見を抱く者も少なくない。故に大っぴらにすることが必ずしも良いとは限らない。
彼もその辺りはわきまえている。
だが、彼は決してオタクであることを恥じることはない。それが彼自身のアイデンティティであり、彼の生き方であり、彼そのものなのだ。彼はそれ以外の生き方ができず、どんなものにもオタク的な接し方しかできない。
それは時に、彼自身でさえも難儀な性格だと思う程だ。だが彼は決してそれを否定的には捉えない。
彼は一生オタクでい続けるつもりでいるのだ。
彼はこう考えている。
誇り高く在るとはどういうことか。
それは自信を持っていることでもある。
だが、それだけではない。
誰から見ても、それはオタクに限らずオタク以外の一般人から見ても、人間的に良くあることだ、と。
世間的な一般人のオタク像で、オタクは根暗で引きこもりで人見知りであるという考え方は少なからず存在している。そのイメージは人間的に良いかと言われれば良いとは思えない。少なくとも彼はそう思っている。
或いはこういうオタク像もある。オタクは周囲も気にせず周りに迷惑をかけることすらしてまで、好きなもののために行動する迷惑な奴らだ、と。これもいいとは言えないだろう。
彼はこういった世間的なイメージを持たれてしまうようなオタクにはなりたくない。そう思っているのだ。それこそが、“誇り高いオタク”であるということだ。
周囲の人間から見て恥ずかしくない人間であり、自分に自信を持っている。こういうオタクで在りたいと彼は思っているのだ。
彼は常に問うている。
「お前は誇り高いオタクなのか」と。
これは自分自身への問いかけではない。
周りのオタクへのものだ。
オタクとは好きな物を突き詰める者だ。つまりそのオタクにはその好きな物を好きな人の代表像となる。つまりオタクには好きな物のイメージ像を背負うことにもなってしまう。悪いオタクがいればその好きな物のイメージ像まで悪くしてしまうのだ。そういう意味でオタクは常に気にしていなければならない。
「オレは誇り高いオタクでなければならない。そうでないとオレの愛する○○まで悪くしてしまう」と。
こういう意識を持ってオタクとしてやれているのかどうかを彼は問うているのだ、他のオタク達へ。
「お前は誇り高いオタクなのか」と。